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登戸の歴史



開催について

1津久井街道

“⾚坂御⾨を起点とする⽮倉沢往還の三軒茶屋で分岐し、登⼾で多摩川を渡り、⽣⽥・柿⽣・鶴川・図師から相模原台地の北部 の淵野辺・橋本を経て津久井中野に⾄っている街道である。この道は絹の道ともいわれる。この街道の主な輸送物資は薪、⽊炭、⽣⽷、柿、梨である。”
~神奈川県史各論編民俗より~

2集落だった登戸

登戸は津久井街道唯一の宿場町であった。厳密には、東海道や相模中道とは違い、正式な街道ではない脇道だったため、"宿場町のような集落"が正しい解釈になる。江戸時代、黒川炭が必需品(人気商品)で、多摩丘陵から登戸へ多摩川を渡り、江戸へ運ぶために利用された。

3主要宿場の規模

種類 小杉 溝の口 登戸
旅籠 1 6 4
居酒屋 3 4 13
煮売り商 0 2 8
合計 4 12 25

4登戸から見る津久井街道

道の名前は行き先から唱えることが多い。実際、多摩丘陵から西の地域は同街道を江戸道と呼んでいた。また、残された指標から推測すると江戸から見ると津久井ではなく、登戸や大蔵(現:町田)への道として認識された。つまりは、津久井街道という名称を最も愛用し、後世に強く名を残したのは登戸の人たちであった。

5なぜ登戸は栄えたのか?

脇道の集落であるにも関わらず、津久井街道と言われるほど強いブランドを持ち、小杉御殿・溝口継立村よりも栄え、居酒屋が圧倒的に多く、交流・物流が盛んで、多摩川の対岸(現:狛江)とも生活を補っていた。

6登戸で暮らす人たち

生活力に溢れ、街に暮らす意義を大いに感じながら、人とのつながりを大事にしていた。今のわたしたちが、先人からの叡智を学び、登戸の暮らしを豊かに体験することで、明るい未来へ繋ぐことができるのかもしれません。

2018年7月7日 「水辺で乾杯」より